|沖縄|世界に響く平和への想い(ラメシュ・ジャウラ)

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ここドイツのベルリンに暮らしていると、世界を欧州の視点から捉えがちである。それは第二次世界大戦の教訓についても同じで、無意識に欧州の過去65年の経験のみに焦点を当ててしまいがちなのだ。しかし東アジアを訪れるとこうした視点を調整できるのみならず、歴史に対する新たな洞察を深めることができる。中でも日本は、下からの変革のプロセスを経験してきた顕著な事例である。

 

この変革の原動力となったのは、凄惨な沖縄戦や広島・長崎への原爆投下で被った拭いきれない人々の苦悩を、人種・信条・肌の色、国籍を超えた力強い平和運動へと変革してきた日本の市民社会である。

 

こうした変革に取り組んできた主な市民社会組織に、在家仏教団体で、池田大作氏の名前とともに有名となった創価学会がある。池田氏は1947年に入会し、彼の師で、戦時中の政府の方針に反対し迫害・投獄を経験した戸田城聖第2代会長の死から2年経過した1960年5月、創価学会会長に就任した。

 

池田氏は戦後の混乱期に戸田氏と出会った。当時戸田氏は、創価学会の再建に取り組んでいる最中であった。創価学会は、1930年、戸田氏と同じく教育者である牧口常三郎氏(初代会長)によって創立されたが、戦時中に軍国主義政府の弾圧を受け壊滅状態に追いやられた。戸田氏は一人の人間の無限の可能性に焦点をあてる日蓮仏教の哲学こそが日本に社会変革をもたらす鍵となると強く確信していた。

 

池田氏が創価学会の会長に就任して最初に手掛けた取り組みの一つが、世界各地に在住する会員間のより頻繁な交流を促す国際的なネットワークの構築であった。池田氏は、会長就任後最初の4年間で、南北アメリカ、欧州、アジア、中東、オセアニアを歴訪し、今日192カ国・地域に1200万人の会員を有する海外組織の基礎作りに乗り出した。

 

こうした流れを背景に、1975年1月26日、51カ国・地域から創価学会会員の代表がグアム島に集い、創価学会インタナショナル(SGI)が発足、池田氏がSGI会長に就任した。グアム島は、第二次世界大戦で有数の血なまぐさい戦場となった地であるが、この新たな平和運動を立ち上げる会合の地として、あえて象徴的に選ばれたのである。

 

以来、SGIは90カ国・地域に現地法人・関連組織を持つ世界的なネットワークへと発展していった。各地のSGIは、それぞれの社会において、日蓮仏教の実践と哲学の研鑽に加えて、平和・文化・教育の分野で多彩な運動を繰り広げている。またSGIは、平和の文化の構築、核兵器廃絶、持続可能な開発、人権等をテーマとした大規模な展示会を世界各地で開催してきている。

 

創価学会青年部は、日本内外における平和活動の推進に重要な役割を果たしている。こうした青年達が連携を図るための重要なプラットフォームに、広島、長崎、沖縄で毎年開催される青年平和連絡協議会(広島・長崎・沖縄3県サミット)がある。青年達はここで平和を推進していくための適切な方法や手段について協議している。具体的には、平和教育に関する展示や、講演会、世論調査に加えて、反戦出版物の発行や、被爆者や戦争経験者の証言を映像に記録する活動等が取り上げられてきた。

 

創価学会青年平和会議(YPC)と同女性平和文化会議(YWPCC)は、若者たちに素晴らしい活躍の場を提供している。私が訪れた広島、東京、沖縄で両組織のメンバーに出会えば、誰もがこうした青年男女が言行共に平和運動に情熱と不屈の精神で取り組んでいる姿に感銘を受けるだろう。

 

こうした青年たちの平和運動は、太平洋戦争時におけるかつての日本の敵国との間に橋を架けるべく、確固たる信念で取り組む池田SGI会長の行動によって、さらに強固なものとなっている。1968年9月8日、池田氏は、そうした思いから創価学会学生部約20,000人を前にした演説の中で、日中国交正常化を呼びかけ、その実現に向けた具体的な提言を行った。

 

この背景には、池田氏の長兄である喜一氏が戦争に召集され、その後、続いて他の3人の兄も召集されたという、自身の体験があった。喜一氏は戦死。亡くなる前に長兄が語った、中国人民に対する日本軍の扱いが酷すぎるとの言葉は、絶えず池田氏の胸に残っていた。

 

当時、日本国内では依然として多くの人々が中華人民共和国を敵国と認識しており、同国は国際社会においても孤立を深めている時期であった。こうした中、池田氏の提言は批判に晒されたが、一方で、中国の周恩来国務総理(首相)を含む、両国の関係修復に関心を持っていた日中両国の人々からの注目を浴びた。

 

また池田氏は、1970年代になると各国政治指導者との対話を開始した。当時は米ソ超大国間の緊張が高まり、人類絶滅をもたらす核戦争の脅威が迫っていた時期である。池田氏は、こうした閉塞状況を打開し、戦争勃発を回避するための対話のチャンネルを開くべく、1974年から75年にかけて中国、ソ連、米国を順次訪問し、周恩来中国首相、アレクセイ・コスイギンソ連首相、ヘンリー・キッシンジャー米国務長官と会談した。

 

仏教指導者によるこのような活動はユニークなものであるが、ドイツの有名な社会民主党党首ヴィリー・ブラント氏が、西ドイツの外相、首相として推進した和解政策を髣髴とさせるものである。ブラント氏の和解政策は、かつての侵略国でホロコーストの加害国であるドイツと被害国の間の二国間関係に雪解けをもたらしたのみならず、1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続いた2つのドイツ国家の平和的統一へと続く道筋を切り開いた。

 

池田氏の平和哲学における顕著な特徴は、対話を通じて共生の道を切り開くというものである。池田氏は、世界中の文化、政治、教育、芸術等、各界の有識者と会い意見交換を行ってきた。対談集が発刊されている有識者の中には、英国の歴史家アーノルド・トインビー博士、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領、神学者のハーベイ・J・コックス教授、未来学者のヘーゼル・ヘンダーソン博士、ブラジルの人権擁護者アウストレジェジロ・デ・アタイデ氏、中国文学の巨人金庸氏、インドネシアのイスラム教指導者アブドゥルラフマン・ワヒド氏がいる。

 

1983年、池田氏は平和提言の執筆を開始し、以来今日に至るまで、SGI発足の記念日に当たる1月26日に毎年発表している。これらの提言は、人類が直面している諸課題についての見解を示すものであり、同時に仏教哲学に根差した解決策や対応策を提案するものである。こうした提言の中には、国際連合の機能強化のための具体的な行動指針も述べられており、その中で池田氏は、世界平和構築に欠かせない存在として、国連が市民社会をより積極的に関与させる能力を強化するよう提案している。また平和提言はしばしば、国際問題における膠着状態を打開するため、対話が果たしている決定的な重要性を例示している。

 

ウェブサイト上にある池田氏の経歴によると、彼の平和への取り組みの原点は、戦時中の自身の経験に加えて、師である創価学会第2代会長戸田城聖氏が、亡くなる1年前の1957年に発表した「原水爆禁止宣言」である。

 

戸田氏は核兵器を悪そのものとして厳しく批判するとともに、核兵器の使用は、イデオロギー、国籍或いは民族的アイデンティティーの観点からではなく、「人間性」と奪うことのできない「人類の生存権」という普遍的な次元から糾弾されなければならないと主張した。

 

創価学会沖縄研修道場と世界平和の碑は、創価大学、民音音楽博物館、財団法人民主音楽協会とともに、人間の日々の生活に強い影響を与え、地に足の着いた教えである仏教の卓越した精神性を具体化した施設である。

 

桃原正義氏は、「今日の創価学会沖縄研修道場は、1977年、米国空軍のメースB核ミサイル基地跡地に建てられたのです」と目を輝かせて語ってくれた。(メースBは核弾頭搭載が可能な戦術ミサイルで1960年代、沖縄のいくつかの基地に配備されていた)

 

(敷地内に取り壊されずに残っていた)ミサイル発射台は、1984年に「世界平和の碑」へと生まれ変わった。巨大なコンクリート構造物(100メートル×9メートル)は厚さ1.5メートルの外壁に覆われており、かつては中国を標的にした核ミサイルの発射台として使われていた。「池田SGI会長の提案で、ミサイル発射台には手を加えず、戦争の恐ろしさを永遠に語り継ぐ記念碑としてそのまま残すことにしたのです」と桃原氏は付け加えた。創価学会沖縄研修道場には、設立以来、中国人を含む外国人が訪れている。

 

また沖縄には、1945年の沖縄戦に准看護婦として動員された194名の女学生と17名の教師達を祈念して建てられた「ひめゆり平和祈念資料館」と「ひめゆりの塔」がある。

 

私はガイドから、2つの女学校(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の生徒たちが共に動員され「ひめゆり学徒隊(戦後の呼称)」として戦場に送り出されたというありのままの事実だけでは語りつくせない、胸が張り裂けそうな悲惨な話を耳にした。彼女たちの中で、「鉄の暴風」として知られる修羅場から生還したのは僅かに5名のみだった。

 

「ひめゆり平和祈念資料館」には戦前・戦中における女学生たちの等身大の視点が紹介されている。館内には沖縄戦で犠牲となった多くの女学生たちの写真や所持品の他に、彼女たちが体験した恐ろしい戦場の様子の再現や戦争の悲惨さを訴える生存者の証言が展示されている。

 

沖縄戦において連合軍は、圧倒的な数の船舶や装甲車両を投入し、莫大な砲弾で熾烈な攻撃を加えたことから、その様子は「鉄の暴風」と例えられている。こうした中、10万人以上の民間人が殺害、負傷、あるいは自殺したと報じられている。また戦争中、多くの民間人が米軍の捕虜になったり降伏することがないよう、日本軍により自殺を命令されたという。

 

2010年9月に沖縄を訪れた際、沖縄戦の目撃者にこの点を確認したところ、当時民間人は軍から自身や家族の自決用に手榴弾を渡されたとの証言を得た。また、軍当局のプロパガンダ(宣伝)により多くの民間人が崖から身を投げた。このような事例は「集団自決」と呼ばれた。こうして沖縄戦の結果、島民人口の実に4分の1近くが命を失った。

 

沖縄戦の犠牲者の名前を刻んだ非宗教的な戦争記念碑「平和の礎」を訪問したが、ここでさらに洞察を深めることができた。「平和の礎」は沖縄戦最後の戦いが行われた摩文仁の地に、沖縄戦と終戦50周年を記念して1995年に建てられた沖縄戦跡国定公園の中でも重要な記念碑の一つである。

 

たしかに戦場で亡くなった人々の名前を刻んで慰霊するという点では、平和の礎もワシントンDCのベトナム戦争戦没者慰霊碑(戦没兵士の名前が刻まれている)と似ている。しかしガイドから、平和の礎では、沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を、国籍や軍人、民間人の区別なく碑に刻んでいくというユニークな取り組みを行っていることを知った。2010年6月23日現在、慰霊碑は太平洋岸の近くに花崗岩で屏風の形状に建立された記念碑に、240,931人の名前が刻まれている。

 

私は池田大作氏が数十年に及ぶ自らの軌跡を小説に描いた大著『新・人間革命』の中に、沖縄の辿った苦難の道を記しているのを知った。

 

池田氏は記している。「沖縄は、あの大戦では、日本本土の『捨て石』とされ、日本で唯一、地上戦が行われ、住民の約四分の一が死んだ悲劇の島である」「さらに、戦後も、アメリカの施政権下に置かれ、基地の島となってきた。これもまた、かたちを変えた、本土の『捨て石』であったといってよい。村によっては、基地の占める面積は、九割近いところもあった。しかも、アメリカの極東戦略のうえで、『太平洋の要石』とされ、中距離弾道ミサイルのメースB基地も四カ所に設けられ、また、原子力潜水艦の補給基地としても、重要視されていた」

 

「基地周辺の住民は、米軍のジェット機や輸送機の墜落、演習による自然破壊等々に苦しめられ続けてきたのである」

 

池田会長の大著『人間革命』は次の言葉で始まる。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。」この物語の主題は、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」というものであり、かつての悲惨な戦場を真に幸福な社会に転ずる著者の決意が込められている。(2011) IPS Japan/Global Perspectives

 

ラメシュ・ジャウラ氏はドイツのジャーナリスト(元ドイツ外国人記者協会会長、ドイツ連邦大統領から「連邦十字賞」叙勲)、国際協力評議会(GCC)会長、グローバロムメディア(GMedia)事務総長、月刊誌「グローバルパスペクティブス」編集長、IPSドイツ(旧IPS欧州総局)代表、IPSジャパン顧問。

 

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